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Patient Talk

特別扱いはいらない。「普通」に接してくれることに勇気をもらえる。

歌手 西城 秀樹さん

西城秀樹さん(歌手)

  • ・本記事は2017年9月26日に公開したものです。
  • ・西城さんは2018年5月16日にご逝去されました。心よりご冥福をお祈りいたします。

西城秀樹さんは2003年、2011年と二度の脳梗塞(ラクナ梗塞)を経験しました。今も発音が正しくできない構音障害や、右半身の麻痺を抱えながらリハビリやトレーニングを続けています。

「病気になって、何をするにも不便になった。そのことが一番つらい」と西城さん。発病してから、歌手として、夫や父として病気と向き合う中で感じてきたこと、治療中に医師と関わる中で気づいたことなどについてお話をうかがいました。

後遺症は二度目のほうがずっと重かった

西城さんが初めて脳梗塞を発症したのは2003年、48歳のときでした。それまで不健康な生活を送っていたわけでもなく、むしろ40代に入ってからは健康に気を配り、禁煙も成功させ、食事も栄養バランスを第一に考えていました。

しかし一方で、体力や体形維持のために、水分補給をほとんどせずにボクサー並みのトレーニングをしていた時期もありました。今でこそ激しいトレーニングや水分不足が体に負担をかけると十分に理解しているけれど、まさか自分が脳梗塞になるとは思ってもなく、病気について知識のなかった当時は、「その危険性を意識していなかった」と振り返ります。

西城さんは、高血圧や過去の喫煙経験などの動脈硬化の危険因子を持っていたことに加え、もともと血管が細く脳梗塞を起こしやすい体質だったことが検査結果からわかり、それからはもっと健康に気をつけるようになりました。リハビリのおかげで体もほぼ元通りに動かせるようになり「ここまでやれば、もう再発はないだろう」そう思った矢先、最初の脳梗塞から8年後の2011年、クリスマスディナーショーのリハーサル中に再発したのです。

めまいのような体のふらつきを覚え、すぐに大学病院でMRI検査を受けたものの、特に異常は見つかりません。「異常がないなら、家に帰りたい」と言う西城さんに、医師は「何かがおかしい。念のため1泊して、明日の朝、改めて検査しましょう」と勧めました。翌朝になるとベッドから起き上がることも難しくなり、再度MRI検査を受けて二度目のラクナ梗塞だと診断されたのです。

初期症状は一度目のほうが重かったのに、構音障害と手足の麻痺という後遺症は二度目のほうがずっと重かったと言います。舌や唇がしびれて思っていることをスッと口に出すことが難しい、手足も自由に動かせない……。脳梗塞の怖さを知っていたし健康にも注意していたぶん、二度目のショックは大きかったそうです。

医師の言葉は患者にとって重みのあるもの

入院中は時間が経つにつれ、後遺症が重いことを自覚して精神的に追い詰められていったという西城さん。

「だいぶよくなっていますよ」「治りが早い方なんですよ」と医師からの励ましの言葉に、当時は「気休めは言わないで欲しい」「僕の気持ちなんか誰にもわかりはしない」と反発していました。重い後遺症が残ったのは、脳の中の運動神経の通り道に近い部分で脳梗塞が起こったことが原因でしたが、まるで先生のせいのように思っていたことすらあると、著書『ありのままに~三度目の人生を生きる』で語っています。

しかし、再発から6年。今のお気持ちを伺うと、「発病してすぐの頃は動揺しましたし、心の葛藤もありましたが、今は違います。信頼できる主治医がいることの大切さを感じています」。そう思うようになったきっかけは、以前、体調が気になって、たまたまいつもと違う病院を受診したことだったと話します。

「その先生は僕のためを思ってなのか、脳梗塞の怖さをあれこれ忠告してくださった。不安になり慌てて主治医の元へ駆け込むと、取り越し苦労だったとわかりホッとした。だから信頼できる医師がいるのは大事」。西城さんは、医師の言葉は、何気ない一言でも患者にとってはものすごく重みがあることを、今一度知ってもらいたいと言います。

現在、西城さんはトレーニングとリハビリを兼ね、クリニックに週3回行くほか、主治医のもとで2か月に1回検査を受けています。医師と関わる中で印象に残っている言葉は? と聞くと「特にないんですよ。優秀な医師は患者に変な期待を持たせたり、逆に脅すような言葉で不安にさせたりすることは安易に言わないでしょう」との答えが。

二度の脳梗塞を治療した大学病院の担当医は、これまでに何人か変わりましたが、いつも引き継ぎがきちんとなされていて、どの医師も西城さんの経過をよく理解して、患者をわかってくれているということも信頼している理由の一つだそうです。

「歌うことは生きること」

構音障害があり、会話は病気になる前のようにスムーズには行きませんでしたが、幸いにして歌うことはできました。日常的に歌を歌い続けてきた経験の影響もあったのか、話すときには言葉が詰まっても、歌い慣れた歌詞はよどみなく出てきます。最初は、テンポの速い曲は言葉がメロディーに追いつかないこともありましたが、リハビリを重ねることでステージでも歌えるようになりました。

「歌うことは生きること」そう答える西城さん。ステージでは、以前のような激しいパフォーマンスはできませんが、ワイルドな歌唱スタイルは健在。

全国100か所近い場所で行われ、昭和の代表的スターたちが集う「同窓会コンサート」はもちろん、若手ミュージシャンらと共演する音楽イベイベントなどでも、代表作の「ヤングマン」を熱唱する姿には会場が大きく沸きます。

デビュー45周年を記念したフォトエッセイ『THE45』の中で、西城さんは「病気をしたあとでも、声量があまり変わっていないとよくいわれます。それは、昔から肺活量が多かったせいかもしれません。もう一つ、僕はステージに上がると別な自分に変わってしまうようなのです(笑)。『西城秀樹』としてのスイッチが入ると、普段はできないこともできてしまうんです」と綴っています。

毎日を楽しみつつ、日々リハビリを続け、少しずつ前進している自分に手ごたえを感じている——。前向きな気持ちで過ごせる背景には、ファンからの声援が励みになるほか、家族やスタッフなど身近な人たちとの関わり方も大きかったそうです。

病人扱いされなかったことに感謝

退院して家に戻ったとき、家族や事務所のスタッフは、後遺症と闘う西城さんを病人だからと特別扱いはしませんでした。

「特に妻は普通に接してくれた。それは今でも変わりません。そのことに勇気をもらえるんです」。そう答えながらも、「子どもたちが体のことを心配してくれるのは、嬉しいけどね。長女、長男、次男、3人ともみんな歌が好きなんだ」。表情を崩して、優しい父親の顔も垣間見せてくれました。

「仕事を支えてくれるスタッフも僕を病人扱いせず、普通に接することが一番だと考えています。『大丈夫、大丈夫』と励ましたり、無理させないようにと過剰に手助けしたりするのは、病を経験した人間にとっては余計な気遣いだと思う。少なくとも僕の場合はそうだった」

治療やリハビリを続けて後遺症と付き合っていくうちに、仕事でも家庭でも病気になる前と変わらない気持ちで『普通』でいること、いい意味で気にしないことが大切だと思うようになったそうです。

二度の脳梗塞を経験し、いま何より望むのは、「普通」に過ごすこと。

「朝起きて、家族と食事をし、ステージに立って歌い、また家に戻る。それが一番いいと常に感じています。失って初めて気づくことだと思いますが、『普通』ってすごいことなんですよ」

(2017年8月某日、取材協力: Battle Cry Sound

PROFILEHideki Saijo

1955年広島県生まれ。’72年に「恋する季節」でデビュー。’73年、5枚目のシングル「情熱の嵐」がヒット・チャート初のベストテン入り、次作「ちぎれた愛」も4週連続1位になり同年、第15回日本レコード大賞歌唱賞初受賞。’79年28枚目のシングル「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」が大ヒット。日本歌謡大賞で大賞を受賞するほか、FNS音楽祭グランプリなど数々の受賞歴がある。

2003年、47歳で脳梗塞を発症。翌年に闘病記『あきらめない~脳梗塞からの挑戦~』(二見書房)を発売。’11年に再発し、2度の経験から感じたことを綴った著書『ありのままに~三度目の人生を生きる~』(廣済堂出版、’12年)を上梓した。

’15年4月13日、60歳を迎えた日に新曲「蜃気楼」を収録したアルバム「心響-KODOU-」を発売。還暦記念コンサートも開かれ、後遺症を抱えながらも力強く歌う姿は多くの人に感動を与えた。’16年にはデビュー45周年を迎え、記念コンサートとフォトエッセイ『THE45』(清流出版)を発売。現在は、ソロコンサートや昭和のスターたちが集う「同窓会コンサート」への出演を中心に歌手活動を続けている。

西城秀樹さん公式ホームページ
http://www.earth-corp.co.jp/HIDEKI/

【監修】 山口 博 先生(山口内科クリニック)

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